日本の三大祭の一つに挙げられる祇園祭は、毎年7月1日から31日までの1カ月間、京都市内の中心部や八坂神社(東山区)で行われる。 クライマックスの山鉾巡行や神幸祭をはじめ、多彩な祭事が繰り広げられる。
平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、八坂神社の神輿を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。
応仁の乱(1467~77年)で山鉾巡行は途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興された。 以後、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたタペストリーなどを各山鉾に飾るようになった。 これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれる。 江戸時代にも火災に見舞われたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。
山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけで、神幸祭に先立つ「 前祭」と還幸祭の「後祭」がある。 高度成長期以来、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭の合同巡行が続いていたが、 祭り本来の形を取り戻そうと分離が決定。2014年、約半世紀ぶりに後祭の山鉾巡行が復活した。
毎年、7月1日の「吉符入り」で幕を開け、2日には山鉾巡行の順番を決める「くじ取り式」が京都市役所で行われる。 10日頃から前祭の鉾建てが始まり、12日頃には鉾の「曳き初め」がある。 14日の宵々々山、15日の宵々山、16日の宵山を経て、17日は、前祭の23の山鉾が祇園囃子にのって京都のメーンストリートを巡行。
前祭山鉾巡行の翌日から、後祭に向けて鉾建てが始まる。 21~23日は宵山期間で、24日は後祭の山鉾巡行。 あわせて花笠巡行も繰り広げられる。 夕方には、神輿が御旅所から神社に戻る還幸祭がある。
【前祭・山鉾巡行まで】
12日頃の「曳き初め」は、女性を含む一般市民も参加できることが多い。 16日の宵山までは、各山鉾町ではちょうちんの明かりに照らされた山や鉾が楽しめる。 各山鉾では、病気除けとされるちまきや、学問成就や立身出世などのお守り(護符)を手に入れることもできる。
【前祭・山鉾巡行当日】
午前9時、計23基の山鉾が四条烏丸付近を出発。四条通を東へ向かった後、河原町通を北上し、御池通を西進する。 四条麩屋町での長刀鉾稚児による「注連縄切り」や、山鉾が各交差点で方向を変える「辻回し」などが見どころ。
【後祭・山鉾巡行まで】
前祭の山鉾巡行の翌日から、大船鉾の鉾建てが始まる。宵山では露店の出店が規制され、本来の祭り情緒が楽しめる。
【後祭・山鉾巡行当日】
午前9時半に計11基が烏丸御池を出発。 前祭とは逆向きのコースを進む。復活した大船鉾や、前祭とは逆向きの辻回しなどに注目が集まる。 後祭列が復活するまで長らく代わりとなっていた花傘巡行の行列も、後祭列を追うよう御池通や河原町通を進む。
祇園祭の「ちまき」は、厄除けのために各山鉾町で売られている。
ちまきが厄除けの役割を担っているのは、八坂神社の祭神・素戔嗚尊が旅の途中でもてなしてくれた蘇民将来に対し、 お礼として「子孫に疫病を免れさせる」と約束し、その印として「茅の輪」を付けさせたのが始まりと言われる。
授かったちまきは、家の門口につるしておき、翌年の祇園祭で新しいちまきと取り替えるまでの1年間飾る習わしだ。厄除け・災難除けとして重宝されている。
祇園祭のちまきは、食べ物ではない。通常は、ササの葉をイ草で巻き、束にして作られる。 しかし2006年には黒主山保存会が、祇園祭で初の「食べられるちまき」を販売。 「食べられる」と勘違いする人もいることから発想を転換し、生麩でちまきを作り、話題になった。
各山鉾では、お守りも販売されている。
お守りの御利益は、山鉾の由来によってそれぞれ異なる。 役行者山のお守りは、疫病よけや安産、交通安全をもたらす、という。鯉山は立身出世、浄妙山は勝ち守りとされる。
浄妙山は、源平合戦のきっかけとなった、1180(治承4)年の宇治橋の戦いで奮闘した筒井浄妙坊明秀に由来する。 この合戦を機に源氏が立ち上がり、平家を打ち破ったことから、勝ち運を呼ぶ山と言われている。
霰天神山では、京都が大火に見舞われた際、急に霰が降って鎮火したが、 霰とともに天神像が降りてきた-と伝えられることから、火よけや雷よけなどのご利益がある、とされる。