葵祭あれこれ
◆祭の起源
 古墳時代後期の欽明天皇(540 ~571年)のとき、凶作に見舞われ飢餓疫病が流行したため、天皇が勅使をつかわし「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされている。上賀茂、下鴨両神社の例祭で、祇園祭、時代祭とともに京都の三大祭に数えられている。
◆名前の由来
フタバアオイの葉  ・牛馬にも葵の葉
 祭の当日(5月15日)、内裏神殿の御簾(みす)をはじめ、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべてに葵鬘(あおいかずら)を飾ったことからきている。使用される葵はフタバアオイで、葵鬘は葵(あおい)を桂(かつら)の枝に絡ませた髪飾り。諸葛(もろかづら・もろかつら)あるいは葵桂(あおいかつら、きっけい)とも呼ぶ。
◆祭の特徴
社頭の儀 舞殿に向かう勅使(左京区・下鴨神社)  ・かつては「勅祭」
 装束の着付け、調度など平安期の文物風俗を忠実に保っている。本来、勅使が下鴨、上賀茂両神社で天皇の祝詞を読み上げ、お供えを届けるのが目的の祭りで、天皇が京都にいたときは、行列の飾り馬と出立の舞を見学したりしていた。行列は路頭の儀といい、長さ約1kmにも及ぶ。行列が上鴨神社、下鴨神社に到着すると、勅使の御祭文の奉納、東遊舞の奉納など社頭の儀が神前で行われる。
◆歴史
 ・中世には衰微
 平安時代中期には、「祭り」といえば葵祭をさすほど隆盛を極めたが、鎌倉、室町時代には衰え、戦乱期に入ると行列は姿を消してしまった。江戸・元禄期に再興されたが、明治2年の東京遷都で行列は中止となった。政府の京都活性化策として明治17年に復活したが、第2次大戦で中止され社頭での神事だけが続けられていた。戦後、行列が巡行するようになったのは昭和28年からで、斎王代の登場は同31年から。
◆ミニ知識
 ・保存きかないアオイ
 平安遷都後の大同2年(807年)、飾り草として使ったのが最初。正式名はフタバアオイで、淡紅紫色のかわいらしい花をつける。山の清流のほとりや深い杉木立のなかに自生しており、水の汚れを極端にきらう。長く保存ができないため、祭に必要な約1万本のアオイを納入期限の4、5日前のうちに一気に採取しなければならない。
 ・牛車にも高級車
 牛車にもいろいろあって、最高級車は唐車。葵祭では勅使用の牛車がそれにあたる。斎王代用は八葉車と呼ばれる少し位の下のもの。昔は牛車で社参していたが、今は乗っていない。外見の優雅さとは裏腹に乗り心地は、はなはだ悪く、車酔いも起こしかねないそうだ。
 ・女の闘い、車争い
 「源氏物語」の「葵の巻」に、斎王列見物にでかけた葵の上と六条御息所の車争いがある。いまをときめく光源氏の正妻、葵の上と、源氏の愛がさめた御息所の衝突。御息所の車は見物の列からハジキ飛ばされる。気のすまない御息所のうらみは生霊となって、やがて葵の上にとりつく。
 ・豪傑もグウグウ
 葵祭の翌日、斎王列が帰るというので、頼光四天王で名高い坂田公時ら3人が見物に。でも、馬では野暮だし徒歩では人目がある。「牛車で見物としゃれ込んでは…」。1人の提案に全員が同意。早速に出かけたが、慣れない車にゆられて強者も車酔い。車の中でグウグウ、スウスウ。目を覚ましたときは、行列は過ぎたあとで、文字どおり、あとの祭り。(「今昔物語」巻ニ八ノ二)
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